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  • phacelia0307

国際交流、経験とこれから!

更新日:2020年6月12日

これまで国際交流も色々と行ってきました。海外とのビジネスの場に入ることができたことも大きく、今の自分の人格形成にも多少なり影響しているように思います。

転機は1990年でした。教職を辞めて仙台に居を移し、新しい挑戦を始めようとしていた頃、これからの時代の大きなキーワードは、コンピュータサイエンスとグローバルだろうと感じました。コンピュータサイエンスの方は大学で学ぼうとして、グローバルの方はまずはアメリカを自分の目や耳など五感で感じてみようと思いました。思い立って、パスポートを申請、航空券も買って、12月6日に成田空港からサンフランシスコに向けてバックパック一つを持って出発しました。行ったら何とかなるだろうと、不安はあるものの、教職経験も既にこなしてきていて多少なり自分に自信も出てきたからできた挑戦だった思うのですが、そんなにうまくはいきませんでした。私の英語は全く通じなく、頭は真っ白、一気に想定外の不安の渦中へ放り投げられた感じでした。そこから今に至るストーリーは、大したものではありませんが、同年代には共感できる、若い人にはしくじり先生として参考になるかも?ということで、順繰りとお伝えしたいと思います。




サンフランシスコ:


最初に入国した地がサンフランシスコ、ここで最初のショッキングな出来事。

入国審査に一番乗りも、係の人が言っていることが全くわからない、というか、何一つ耳に入らない。

金縛り状態!、無言に聞こえる!、相手は怒っているようだ!

時間は経過してるが何もできない。彼は次第に怒り出してきた。私のパスポートを下に放り投げた。どうすればよい?、取ってみるか。次に、彼は指を私にさして、その後で勢いよく腕を横に動かしてきた。

あっちに行け!ということか、多分そうだろう、もう行くしかない。進んでみたら、そこは出口だった。入国審査を終えて、アメリカに入国できたのだ。さあ、これからどうする?

1990年12月7日早朝、まだ7時台だった。




ここが原点だった。 ~ その後に書き残していた手記からの抜粋


12月6日、仙台から上野まで移動、京成ライナーで成田空港へ。ユナイテッドエアライン、国際線の飛行機に乗るのは初めてだったが、機内では日本語も通じ、不安もあったが、期待の方が大きかった。時差があり、同日の朝7時頃、サンフランシスコ国際空港に到着、そして、そこでの出来事が全ての始まりでした。

 バックパックを背負ってさっそうと歩き、搭乗者の中でも一番に入国審査に辿り着いた。パスポートを渡したところ、係の人はそれを見ながら何か話をした。全くわからない。話が続いたが、何もわからなかった。何一つ言葉が出ない。頭の中は真っ白。きっと、金縛りにあった状況だったと思う。その後も、彼は一方的に話をかけ続ける、私は一言も返さない、その繰り返しが続いた。そのうち、彼は怒ったのだろう、私のパスポートを下に放り投げ、そして、指で行けというサインを出した。私は急いで拾って、出口の方へ向かった。預けている荷物も無いので、慌てて出口を目指したと思うが、ここでの記憶は全く残っていない。空港に着いたらこうしよう、こんな質問が来るのでこう答えよう、万全の事前準備をしてきたつもりだったが、結果は全くゼロだった。

 そんな波乱のスタートで始まった旅だったが、そこから二週間と数日、サンフランシスコとロサンゼルスを一人で自由に歩き回った。湾岸戦争が始まるのではと辺りが騒々しくなったクリスマス直前の頃に無事に帰国できた。


 何とかなったのだが、英語ができない不甲斐なさを痛烈に感じた。それが生まれて初めての海外渡航だった。空港で体験したあの屈辱的な対応は、帰国後も記憶から離れず、何とか見返したいと強く思った。心底悔しかった。

 外国人とコミュニケーションできるレベルまで、数年以内に、といった目標設定をして、できることは何でもすると自分と約束した。

 その後、仙台で学ぶという予定を変更し、地元の山形大学工学部に学士入学した。そこで情報工学を学んだが、英語の勉強も独自で続けた。その後、運命的な出会いから、1993年4月、NEC米沢という地元にある企業に勤めることになった。

 会社の研修制度の中に通信教育の費用支援があり、アルク社のヒアリングマラソンを受講した。他には、某女性と英語での交換日記も始めた。働いていたフィリピン人の出向者3名とは積極的に接点を作り、極力英語で話かけるよう努めた。丁度この年に、今日に至るまで25年以上も続く友人のアイラ・ボールデンさんとも出会うのだが、それは高畠町に来られたグループへの案内役の一人として叔母を通じて声がかかったのに応じたのがきっかけだった。そのグループの中におられた。とにもかくにも、自分の英語力を上げるためなら何でもしよう、若かったこともあり一途だった。

 もう一人、同じ時に知り合った、ハリッシュ・レディさんとは家族ぐるみの交流が始まり、ご両親が日本へ旅行に来られた時には我が家へも訪問してもらい、私が2日間に渡って観光案内をさせてもらった。その前年には、ご両親が居住しているアメリカのアトランタを私の方が訪問、ホームスティをさせてもらっていて親しくなっていた。短い日数だったが、やり取り回数はその後も多く、密度の濃い交流だった。


 そうした活動の結果として、入社後2年の間で、実用英語検定の準一級に合格、国際連合英語検定のB級にも合格した。それぞれ上級に、一級、A級とあるわけだが、そこには辿り着かなかったものの、それなりに英語力があることの証明を得た。英語ができると思われたことからだろうが、海外PC開発部門へ異動になり、英語を使う機会がますます増えた。みるみるうちに会社で受験を義務付けられたTOEIC試験の点数が上がっていった。

 将来、英語や自分が体験した国際交流の楽しみを子供たちに教える機会ができたらいいなと思い、日本大学通信教育部文理学部に入学し、スクーリング等に通いながらの2年間で、英語の高校一種、中学校一種の教員免許を取得した。仕事が忙しい中で時間を作るのは大変だったが、意地で乗り越えた。これら一連の資格類は、具体的に役立ったわけではなかったが、英語を勉強する目標にできたことが大きかった。日本大学の4週間のヨーロッパ研修旅行に参加して、知見や経験を得て、仲間を作ることができたことも収穫として良かった。


 その後、1996年11月から3か月間、アメリカ西海岸シアトル近郊にあったNECのアメリカ工場に緊急で転勤した。日本人出向者の数名以外は全て現地の方々、レポート報告先の上司もアメリカ人。短い期間だったが、日本の開発とアメリカの生産をつなぐ窓口としての勤務、よい経験をさせて頂いた。この間、英語を使う実践的な場だけでなく、文化や慣習に浸ることもできた。休みの日に同僚の家に集まってホームパーティーに参加、親しくなった方に招待されて教会に行ったり、家族ぐるみで食事や子供と遊んだりもした。

 他に、11月末に4連休があったので、日本でお世話になっていた英会話先生のご両親を単身で訪問した。カナダのカムループスというところに、シアトルからバスで計10時間もかけて行った。バスの停留所で出迎えてくれたお母さんとの最初の出会いがとても自然だった。ご両親の家には3泊、最終日の別れが心から惜しまれる位、いい滞在をさせて頂いた。

 案内されて行く先々で、「日本から来たもう一人の息子だ」と晴れ晴れと私を紹介されるお母さんの姿を見て、大変心地がよかった。

 その後も交流は続いて、2004年11月に、8年ぶりに、カムループス、アトランタ、デンバーと懐かしい三カ所を回ってきた。アメリカの工場で同僚だったジョイさんから、「教会を設立して牧師になった、一度ぜひ遊びに来ないか」という強い誘いを手紙で受けていた。それを実現すべく訪問したのだが、そこでは想像以上、老若男女色んな方々との国際交流があった。


 教会の方々には前もって私の訪問が伝えられていたようで楽しみにされていた。最初の日、私にみんなの前でのスピーチの機会が与えられた。それぞれが自分の母国の小さな国旗を持ち、私は日本の国旗を持ち、私は前に出て日本や自分のことについて話をした。どんな話をしたかは覚えていないが、数分間は英語で話をした。その後で、教会にある白いピアノで、「四季の歌」を即興で弾き語りして披露した。歌詞の意味は後で説明した。皆さんにはとても喜ばれた。演奏した私も興奮していた。

 この2004年の三か所での再会は、大変感動的だったし、私の人生にとって大きな自信につながる貴重な経験になった。


 その後、2006年の転職で、東京から地元の山形県高畠町に戻り、業務の違いもあり、英語を使って仕事をする環境からは完全に離れた。交流を続けてきた海外の仲間たちとは、クリスマスカードの交換は毎年続けてはいたが、あとは時々手紙を出す位で、中小企業での多忙な日々に忙殺されて、やり取りは簡素になってしまっていた。そんな中でも、アイラ・ボールデンさんが、日本で生活を始めてから定期的に訪問してくれたり、東京で奥さん交えて会食をしたり、交流は長く確実に続いている。カナダのお母さんは、ご主人を亡くされたが、私との手紙のやり取りは続いている。こうした、お金では到底買えないような経験やお付き合いは格別なものであり、英語を学んだがゆえに、いい思い出を作ることができた。


 これから益々当たり前になるグローバル社会の中で、意思伝達するための言葉、特に世界共通語である英語でのコミュニケーション力の強化は重要な課題である。そこには教育上の課題もあるが、指導者が目的を持って挑戦することでレベルを上げていけるはず。指導者が育てば、政府が考えている英語教育の目標数字が実現できるだろう。その為には、意欲ある教師を増やし、彼らに学ぶ機会を与えることだと思う。あの最悪の英語デビュー戦からここまで英語力を引き上げることができた私の実例にもヒントが隠されている。環境が恵まれたことはあるが、今は当時よりネットワークのインフラも豊かであり、学ぶ意欲があれば、手段は色々と多様に存在すると思う。もっと効率よくできるかもしれない。


 私の経験はあまりにもひどかった、だから、あまりにも悔しかった。それが全てのスタートになり、結果が出たことで自信にもなり、国際交流の楽しさも十分に体感できた。

 この4月、娘が小学校進学した節目の年なので、私も英語の勉強を少しだけ再開してみた。NHKのラジオ英語講座の聴講である。英語学習を続けていく為の具体的な目標も探っている。


                                2017年春



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